無敵になりたい。
もう、無敵にさえなれたら、最近の悩みやら心労やらはまとめて解決できる。理由は無敵だから。
相手がなんだろうと、たとえば年度末でばたばたとした仕事、上手にやりきれない人間関係、スギ花粉、忘れたつもりだったけどふとしたときに思い出してしまう悲しいこと、とか。全てを相手にしても負けないくらい、無敵になりたい。
子どもの頃、大人ってほんとに無敵な存在だと思い込んでいた。
二十歳を過ぎて、社会に出て働きはじめる頃には、いろいろなことがありつつも、酒を飲みながら冗談混じりに愚痴をこぼす程度の時間さえあれば、明日からまた変わらず頑張れちゃうような、そんな無敵の人間に勝手になれると信じていたし、周りの大人たちも、みんなその域にいると思い込んでいた。
そんなわけないって、気づいたのはけっこう最近の話で。僕はもう25歳で、今年26歳になってしまうけれど、一向にあの頃イメージしてた大人になれた気配がない。四半世紀もの経験の蓄積はいったいどこへいったのか、まだこの人生ゲームの操作にも慣れていない。無敵どころか周りも強敵だらけ。相変わらず、小さいことに思い悩んでいるし、その小さいことが人生の全てかのように見えてしまったりする。まだまだ遊んでいたいし、他人に身勝手な期待もするし、漠然とした不安も常に抱きっぱなし。ましてや、こんな気持ちの悪い、自分が気持ちいいだけの文章を書いてるような大人になってるなんて、想像すらしていなかった。
周りの人たちにしても、それぞれいろいろな悩みを抱えていることくらいはさすがにもう、わかる。自分だけが置いていかれて子どものまま、と思い込んでいるほど子どものままではないつもりではいるけど、やっぱり最近、少し、周りの同年代の友達がどことなく"大人"になってしまったような気もする。
彼らの、昔みたいに人間臭く、くよくよと、情けなく思い悩む姿を見なくなった。割りきることができるようになったのか、隠すのが上手くなったのかは全然わからないけど、そういう姿を見せない様子は、まるで子どもの頃にイメージしていた"大人"みたいで、大人がみんな無敵ってわけではないことに気づいてしまった分、余計、無敵に少し近づいたかのような彼らの変化が寂しくもあって。
しかも彼らは、自分の変化に無自覚だ。居酒屋で学生の頃よりはほんの少しだけ良い酒を飲みながら、彼らにとっては些細な、僕にとっては重大な変化を指摘してやると、決まって彼らは否定する。「なんの成長もしてない」と笑って言う。少なくとも、成長してなさを笑って受け入れるような強さは持っていなかったじゃないか、という言葉を酒と一緒に飲み込む。
もちろん、そんな彼らから見たら僕もずいぶん自覚のない変化をしているのだと思う。きっと。だからといって、取り残されていくような、あの寂しさはなくなるどころかどんどん肥大化していって、負けそうになることもある。
今の自分に比べれば、自分が非凡であると思い込んでいる凡庸さを持ち合わせた昔の自分の方が、幾分か無敵に近かったかもしれない。そう考えると、大人になるにつれて、むしろ無敵から遠ざかっているような気持ちになってしまう。
こういう気分のとき、僕はさよならポエジーを聴くことにしている。
"でもそれなりの才能で 俺は俺を救ってやろう
苦悩の割に実りのない この感性を愛している"
無敵にはなれないけど、無敵じゃない自分に優しくありたいな、と。そう思えてくるような、こういう音楽をずっと大切に聴いていたい。
そんなふうに思えるようになっただけでも、あの頃憧れた"無敵な大人"に数㎜くらいは近づけたってことにしてしまおう。
無敵になりたい。