十代の頃に出会いたかったバンドがいる。
感受性ばっかり鋭くて、感動したものにはそのまま憧れて、人格の形成にまでもろに影響受けまくって、「かっこいい」のイメージがたやすく形づくられていく。そんな多感で可塑性に富んだ十代の頃に出会っていたらいったいどんな自分になっていたのか、聴きながらそんなことをつい考えてしまうバンドがいる。
リュックと添い寝ごはんと言います。バンド名です。ふざけてないです。「リュクそ」と略したりするらしい。ほんとにふざけてないです。
ちょっとくせのあるバンド名ではあるけど、ひとたび再生してみれば一瞬で「あ、これ好きだ」となってしまう。「かき鳴らす」ってどういうことかと問われれば、この曲のイントロ聴かせるのが正解。そのくらい純粋にかき鳴らしてる。高校生でバンドやりたかった後悔をじんわり抱える大人たちがイメージするバンドってつまりこれ。そう、こういうのなんだよ。いや、べつに後悔してませんけど。
彼らの恐ろしいところは、あえて十代の青春ど真ん中ではなくて、青春の終わりがちらついて大人に近づくあいまいな時期、十代の最後を歌っているところ。彼らの年齢そのまま、等身大の青春を曲にしている。
今の僕にしか
描けない日々を
あの頃に描いてた夢や希望はもうないさ
僕らの青春は日々変わっているから
彼らの魅力とスタンスがここに凝縮されている。多感な十代の時期を必死に生きて、酸いも甘いもしっかり噛みしめて、すべての望みが叶うわけでも思いどおりになるわけでもないことをちゃんと経験してきてる。だからこそ、いまの十代の先陣を切って同世代やより若い世代を鼓舞する曲が書けるし、「僕らの青春はここからだ」と歌うことができる。
そんなわけで彼らの曲やMVに対して、彼らより少しだけ大人になってしまった僕らが聴いてしまうと、「キラキラした青春だな」とか「こんな青春送りたかった」みたいな陳腐な感想がちらついてしまうのはある意味で仕方ないところもある。これは大人に向けた歌詞ではないのだから。
中学生や高校生の目線から見て少しだけ大人の彼らが、少しだけ大人の感性をもって、だけど大人じゃ見逃してしまうような繊細な感情を歌詞にしている。十代だからこそ響く良さがある。十代になりてえ。
じゃあ大人は彼らの音楽を楽しんじゃいけないのかと問われれば、もちろんそんなことはない。彼らの音楽に憧れたり影響されたりすることはないかもしれないけど、そもそもある程度歳をとれば音楽に影響されるようなことはあまりなくなる。それでも良いものを耳から摂取して揺さぶられる感情があるからこそ、大人になっても音楽を聴き続けているわけで。
彼らの十代特有の繊細な感性は、大人になればなるほど見逃してしまいそうにはなるけど、見逃さなければいい。かつて誰もが通ってきたその鬱屈とした感情や無力感。それと併存する謎の無敵感。そういうものが自分の奥底に欠片でも残っているのなら、彼らの曲を聴いて揺れ動く感情があるはず。それを丁寧に拾い上げて感じ取ることが、十代じゃない僕らの、リュックと添い寝ごはんの味わい方のひとつなのかなと思ったりもする。
それに、松本ユウの歌声はむしろ、十代らしくない。もっと浮き足だって変に尖った若手のバンドがたくさんいて、そんなバンドも大人になるにつれみんな歳相応に歌い方は変わっていくし、長くバンドをやるならその方がいい。でもこの落ち着いた、かつ熱を帯びた歌声はずっとそのままでいてほしい。いくつになっても聴いてられる類いの天性の声だから。
曲も、極端に早くして勢いでゴリ押すみたいな若手にしか使えない手段は取らない。メロディだけを流したって心地よく聴いてられるような曲ばかり。
さっきは彼らの歌詞やMVについて、ターゲットは十代であって大人に向けては曲をつくってないみたいな言い方をしたけど、あらゆる要素に目を向ければ実は全年齢対象のバンドだ。ただ、年齢やそれぞれの感性によってまったく異なった楽しみ方ができるというだけ。まさか狙ってやってるわけではないだろうけど、自然とこういう精細なバランス感覚をもって曲がつくれるのなら、このバンド、これからとんでもないとこまでいくんじゃないだろうか。
去年、高校生にしてすでにロッキンのステージに立ってることからしても、これからますます人気が爆発していくこと間違いなしのリュックと添い寝ごはん、今のうちに聴いといた方がいいと思いますよ。
では。